松田洋一郎 南八王子サッカークラブジュニアユース監督に贈る言葉
          

 松田さんのご逝去に衷心より哀悼の意を表します。できるなら代わってあげたいとおっしゃっていたお父様・お母様,…妹様,ご遺族の皆様に心からのお悔やみを申し上げます。
 
 悲報に接する3日前,病院を訪れ,松田さんから頼まれた第6回湯殿川カップ開催に寄せる私の言葉をお届けしました。その際,「無理しないでみなさんに仕事を依頼して下さい」とお話ししましたら
「18チームも参加する大会の組み合わせを作ります。私の生き甲斐ですよ。」
と松田さんは笑っておっしゃっていました。
「来年の2月,南の35周年,ジュニアユースの10周年を祝う会をするから,松田さんはピアノの弾き語りをやってね」
と私がお願いしたところ
「それは分からないですよ」
との答えでしたが,“じきに退院”の言葉に希望をもち,その場を辞してきました。
 優しく強く,信念を貫く男,松田さんのことだから病気にも打ち克ってくれることを信じていました。ところがこの悲報です。お父様から連絡をいただいたとき信じることができませんでした。お別れの式の予定をうかがう中で現実であることを受け入れざるをえませんでした。後は涙がこみ上げてくるばかりでした。水曜日の夕方から,私は精神不安定になっております。もっともっと松田さんといろいろな話をしておきたかった……。

 毎年の年賀状,最近はいつも“素敵な南を創りましょう”と書いてくれていました。その賀状を見るたび,今年もGAMBAらなくてはと思うのでした。来年の春はいただくことができません。

 松田さんと出会ったのは南八王子サッカークラブを創って3年目,南の3期生が6年生の時でした。5・6年生のクラスの指導をお願いしてから12年間コーチとして指導をしてくださいました。出会いから今33年を数えています。

 松田さんはマンチェスターユナイテッドのサッカーが大好きで,何度もイギリスを訪れていました。私の娘が誕生したときは,マンチェスターユナイテッドの赤と白と黒のチームカラーでユニホームのレプリカを特注で創り,誕生を祝ってくれました。
 マンユーの往年の名プレーヤー,ジョージベストが大好きで,メールのネームもGベストとしていました。ジョージベストの華麗なドリブル,DF網を切り裂きゴールをゲットするプレースタイルに心酔し,子ども達にもドリブルができる子にと指導に力を尽くされていました。
 私もマンユーが大好き,ジョージベストが大好きで松田さんと全く同じです。子どもにサッカーをどう教えるかも一致していましたので,安心してお任せすることができました。

 松田さんは,暑い夏も厳寒の冬も,土・日の活動だけではなく,月曜日・金
曜日の朝6時から1時間、由井三小で朝練を実施してくれました。子ども達は技術・戦術だけではなくメンタルの面でも強く鍛えてもらいました。

 3期生,6年生の秋,八王子市民体育祭に南は赤・白の2チームが出場し,両チームとも圧倒的なスコアで勝ち上がって決勝進出。監督として松田さんと対戦した唯一の楽しい試合でした。その後,市民体育祭で同じクラブ同士で決勝という試合はありません。私の記憶には,フットサルで南のジュニアユース,南の小学4年生があるくらいです。 

 5期生は,1都7県の強豪24チームが集まって優勝を争ったむさしの招待第1回スポーツビリー杯で決勝に進出し,惜しくも敗れましたが準優勝に輝きました。決勝戦,当時の由井三小の井上校長先生も遠くまで応援に駆けつけ、明くる日の全校朝会で全校児童に報告をし,その努力とGAMBAりを称えてくれたのです。(むさしのリーグとは都内各地の12チームで成り立っているリーグです。全日本大会に都代表を8回送っているハイレベルのリーグです)
 その年のさわやか少年サッカー東京都大会,優勝した白百合とベスト4をかけて激突し,一進一退のゲームを展開しながら0−1で敗れました。松田さんは思い出すと「あれは絶対オフサイドだった」といつも悔しがっていました。
 朝練では,練習の最後に必ずPKの練習をしていました。ゴールの両脇にタイヤを置いてそれにあてる練習です。子ども達も松田さんもPK戦には絶対の自信を持っていました。白百合戦もPK戦に持ち込めばという勝算があったのです。いつも指導法の勉強をして様々な工夫をこらしていた松田さんでした。

 さわやか杯都大会でベスト8入りをしたチームのCF堀江直喜君は,清水リアルチャンピオン戦(その年の都道府県代表クラスが一堂に会して戦う清水市の大会)にむさしの選抜の一員として出場し,準優勝,得点王に輝き,静岡テレビで中継された決勝戦で,解説者から超中学生クラスと絶賛されたのです。

 7期生は,全日本大会に都代表として出場を決めたチームから,全日本大会に向けての強化試合として練習試合を申し込まれました。私は,相手の監督に「南が勝ったら代表権をくれる」といって試合に臨みました。結果は見事1−0で南の勝ち。
 素晴らしい子ども達,チームを育てた松田さんの指導者としてのレベルの高さをご理解いただけるお話をさせていただきました。

 その後,南の壮年部でサッカーを楽しまれ,指導者としてはブランクがありましたが,10年前に南八王子サッカークラブジュニアユースの部を創設し,監督として指導・運営に活躍され現在に至るのでした。
 その間,いつも文化大のグランドには子ども達を指導している姿,一輪車を押し,スコップやトンボでグランド整備をしている松田さんの姿がありました。一つのことに誠実に打ち込む松田さんは子ども達にとって何よりの生き方の手本でした。子ども達はその後ろ姿にしっかりと学んでいます。
 

 ジュニアユースの世代でサッカーをしたいのに指導者や環境に恵まれない子ども達のために,中学生の部を南に創りたいと松田さんが私に伝え,私も趣旨
に賛同し創設されたのが南八王子サッカークラブジュニアユースでした。
 会費は1500円にしました。サッカーをやりたい子ども達が少しでも入りやすいようにという配慮です。サッカーだけでなく勉強もしてほしいと,寺子屋の開催,農業体験・酪農体験,高尾山から相模湖までの縦走ハイク等を実施し,子ども達のよりよい人間としての成長を願い,全人格的な発達をめざし,尽力されてきたのです。大学を出てお仕事をされながら玉川大学の通信教育課程で教員資格を取得され,教師をめざされた松田さんならではの活動・運営でした。これからもその南のスタンスは変わりません。
 
 塚本八王子市会議員のお骨折りと日本文化大学のご好意で文化大のグランドを使用できたこと,南の卒業生のほとんどが中学の部に1期生として入部したこと,江口さん・和田さん・安東さん・川嶋さん・佐藤さん・五味さんをはじめとするスタッフに恵まれたことも幸いでした。
 順調な滑り出しで活動は軌道に乗り,毎年市内から大勢の子ども達が入部しています。学校のクラブと両立させている子も少なからずいます。松田さんの誠実さ,子どもを想う情熱に共感し,理解・協力してくださる中学の先生方が多数いらっしゃるからです。OBがコーチとして加わるようになってきたことも南のジュニアユースの素晴らしさ,リーダーの魅力を証明しています。

 ジュニアユースでもドリブル主体で個々の判断を重視する指導方針を貫き,トレセンクラスが揃うクラブにも勝つ南を育てています。三多摩カップ優勝,拓大杯優勝,湯殿川カップ優勝等の実績を残す中で,南が主催する湯殿川カップは早くも6回目を数え,八王子市内だけではなく,山梨・神奈川のチームも参加してくれるようになりました。18チームを数えています。
 松田さんは6回目の開催を楽しみにしていて,初日に履くスパイクを新調していたのです。それなのに,……なんという無慈悲で酷い天の計らいでしょうか。松田さんのお気持ちを察するに,残されたご家族のお心を察するに,残念で無念でなりません。どうしようもない悔しさです。

 ご本人は固持されていましたが,私の後のサッカークラブの代表をお願いするのは松田さんと決めていました。それも,かなわなくなりました。
 残された私達,南八王子サッカークラブの全カテゴリーが協力して“素敵な南”を創るべく努力すること,それが松田さんの崇高なる想いに応えることになると考えます。それが残されたご家族のお心のいくばくかの癒しにつながると信じます。
 南は創立35年目を迎えました。ジュニアユースは創立10年目を迎えています。かけがえのない素晴らしい柱の一つ,松田さんを奪われてしまいましたが、…重ね重ね申し上げます。…松田さんの想いをそれぞれが受け継ぎ,“素敵な南”を創っていきましょう。そうすることで松田さんが,南に,私達の心に生き続けることになるからです。


 松田さん,本当に長い間,お疲れ様でした。
 私達は貴方からたくさんのものをいただきました。
 土・日の練習の他に水曜日の夕方,由井三小で,中学の部活を退部した子どもに練習量の確保にとマンツーマンで教えているお姿に,子ども一人一人を大切にする姿勢に心を打たれました。
 松田さんと子ども達についてお話をすることが,いつも私自身の日頃の実践を振り返ることになりました。沢山教えられました。南の周年記念誌にも書かれていますが
「子ども達にサッカーを教えるだけではなく,反対に子ども達から教わること が沢山ある」
と常々おっしゃっていたこともその一つです。
 貴方は接する人達の心をピュアなものにしてくれました。
 有り難うございました。

 由井三小や河口湖での松田さんの会社のチームと南の試合,マンユウと同じユニホームを着ていましたね。和やかでガチンコの試合…。試合後のビール,最高でした。語らい,楽しいひとときでした。
 1982年、サッカーマガジンの取材を一緒に受けたこともありましたね。
「少年サッカーわたしのアイデア・トレーニング」
“もてて読みのある選手の育成”
がテーマでした。
 全日本予選,さわやか杯の都大会に出るのが当たり前だった南の子ども達のために赤と白15着ずつのユニホームをプレゼントしてくれました。赤・白の応援の横断幕“GANBA南 めざせゴール!!”を2枚作ってくれました。 1982年2月11日,八王子市民体育館で行われた国際サロンフットボール大会の会場にその横断幕が張られています。私が演出・進行を担当した大会の会場を飾ってくれたのです。南米の強豪パルメイラス・読売クラブ・日本選抜の試合の様子を南が載った同じサッカーマガジン4月号に特集しています。
 新春フットサル、相手ゴール前のフリーキック,相手の壁に割って入った松田さんは足を広げました。私はそこをねらってシュート,決勝のゴール!!
アイコンタクト,阿吽の呼吸でした。
 クリスマス会,松田さんのピアノの弾き語り「ぼくの妹に」,柔らかいタッチ,優しい歌声,素敵でした。 
沢山の想い出……有り難うございました。

 亡くなる3日前の病室で松田さんはチェルシーの応援歌を聴かせてくれました。私も大好きなフレーズです。松田さんに捧げます。
 You’ll never walk alone! 
  &
We’ll love you forever.

 ゆっくりとお休み下さい。
時々,空の上から私達のことも見守っていて下さいね。

2011年6月25日(土)                      
             南八王子サッカークラブ代表  矢上 健一

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